北条氏北の拠点「鉢形城」
- 2022.09.25 Sunday
- 14:40
JUGEMテーマ:お城
みなさん、こんにちは。
前半の台風の影響と後半の旅に出ていた都合で更新が予定よりも遅くなったゆうりです。
人生で初めてかもしれないくらい高級旅館というものに宿泊しました。
通常では経験できないような未知の体験に心躍るとともに、お金の大切さを痛感しました。
さて、そんなゆうりが本日お届けするのは、
日本100名城の69城目、
No.18鉢形城です。
登城日は、令和4年7月下旬。
ゆうりの甲武城めぐりで訪れました。
この写真は、鉢形城のすぐそばを流れる荒川から撮った写真です。
寄居駅からまっすぐ歩いてこの場所に着きました。
ゆうりは、途中のコンビニで昼食を購入(道路沿いに入れそうなお店がなかった)したので、20分ほどかかりましたが、すたすた歩くと15分もかからないでしょう。
橋を渡ると、
こちらの入り口にたどり着きます。
この辺りは、鉢形城の笹曲輪と呼ばれる場所です。
この辺りには、鉢形城の模型もありました。少し奥に見えますが、ほとんど石碑で隠れています。
地図を頼りに本丸の方に向かって歩きましょう。
途中の四阿(あずまや)で昼食を頂きます。
すぐそばには、雄大な荒川が見えます。
荒川が天然の堀の役割を果たしていたのでしょう。
また、城跡ですから。虫のおおいこと。
四阿をから登り坂を歩いていくと、
見えてきました。
鉢形城の本曲輪です。
周囲よりも一段高い場所に位置しています。
本曲輪から道路方面を見ると、そこには伝御殿曲輪と呼ばれる曲輪があります。
この辺りが鉢形城の中心地だったようです。
本曲輪から降りて、道路へ出ます。
途中、バッタが飛んできて叫び声をあげました。
他に人がいなくてよかった。
ここから、右へ曲がれば写真でよく見るような復元された曲輪や門や土塁があるのですが、時刻は12時50分ほど。
12時に駅を出発してコンビニ以外で涼んでいません。
とんでもない暑さです。雨上がりの蒸し暑さにぬかるんだ大地。
命の危険を感じたため、二の曲輪を横に見ながら、看板に従い鉢形城歴史館を目指したいと思います。
途中、
土塁や、
もう一つの守りの要、深沢川を横切りました。
この辺りは、涼しくて良い感じです。
川を渡ると建物が見えてきました。
鉢形城歴史館です。
こちらに日本100名城のスタンプがあります。
止まらない汗をかきながら、涼しさを求めて館内へ。
建物の中は想像を超える展示内容の豊富さでした。
まだ、小田原城へは訪れていないからかもしれませんが、後北条氏の展示がとても分かりやすい。
一族をあげて戦乱のおさまらない中世関東に覇を唱えていったのでしょう。
そもそも、この鉢形城は、混乱期の関東において、混乱の一役を担っていた山内上杉氏の家臣長尾景春によって築城されました。その後は、山内上杉氏の重要な拠点として機能します。
家臣(長尾景春の反乱)、扇谷上杉氏との戦乱、家督争いと幾度となく争いの中心となりますが、山内上杉氏の居城としての地位は保持し続けました。
しかし、川越城の戦いの後、後北条氏がこの地へ進出すると、当時の当主上杉憲政は春日山城の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って越後へのがれます。
後北条方の豪族藤田氏に入婿した北条氏邦(氏康四男)が城主となり、後北条氏の北の拠点となります。
現在の鉢形城の多くは、後北条氏の整備によるものだと考えられています。
この鉢形城は、武田氏や上杉氏からの攻撃にも耐え続け、北関東でも指折りの名城として機能してきました。
しかし、あの小田原攻めによって、鉢形城は開城します。前田、上杉という強固な軍勢を相手にひと月耐えきりました。
北条氏邦の城兵への助命という条件による開城です。
その後、北条氏邦は前田家に預けられ、前田家臣として生き続けました。
鉢形城は開城した後、徳川家の所領となりますが、程なくして廃城となりました。
鉢形城歴史館で勉強しながら涼むこと約30分。時刻は13時半前。
先ほど諦めた復元施設へ行くかと葛藤したが、現在地から見ると、一度戻ることになるらしい。
無理でしょう。諦めます。
ここから25分ほど歩いた場所にある鉢形駅に向かって歩きます。
結果論としては、復元施設へ行かなくてよかったというところでしょうか。
駅まで25分ほど歩き、さらに次の城まで30分近く歩きました。
もし、炎天下の中、復元施設へ行っていたらどうなっていたのか。
怖ろしい限りです。
☆お城データ☆
城所在地:埼玉県寄居町
交通手段:寄居駅から徒歩15分または東武東上線鉢形駅から徒歩20分
スタンプ:鉢形城歴史館
次は、来週か再来週か。この旅のお城もあと二つです。